Feb 14, 2011
「心」の古訓に「ウラ」があり、「面」の訓に「オモ(テ)」がある。面はオモテ、心はウラ/心が表(面)に現れて来ぬように/漢字の音と訓 読書猿Classic: between / beyond readers (via ginzuna) (via umi82mizuiro)
古人は、「心」を「ウラ」と読むことができた。そして「面」とい う漢字に「オモ(テ)」という訓(読み)を与えた。
「うらなふ」「うらむ」「うらやむ」というのは、みんなウラ(心)の動詞化であり、 「おもふ」「おもねる」「おもむく」は、オモ(面)の動詞化である。
「おもふ」「おもねる」「おもむく」は、オモ(面)の動詞化で、み な「現れたるオモ(面)」と関わりがある。
「おもふ」はもともと、むしろ思考よりも感情についてのコトバで、表情に(感情などが)現れる ことをいった。「面(オモ)」が「顔つき」や「面影」を意味するように、感情なんかがオモテに、つまり表情(面)に現れることを意味した。
我々は、表情をコントロール可能なものだと思っている。
すぐ顔に出すのは、あまり賞賛されない社会に生きている。
けれども、表情はも ともと意識的にはコントロールしにくいものだ。人間はそういう風にできている(そういう風に進化してきた)らしい。
ところで、 ある時「おもふ」の意味に一大革命が生じた。
『万葉集』ってのは、やんごとなき連中の恋の歌がたくさん入ってるが、大体は不倫か何か で、結ばれるどころか、表沙汰になった時点でヤバい相手に恋慕してる。
そのせいかどうか分からないが、『万葉集』に出て来る「おもふ」 の半分が「念(おも)」を使って表記してある。
「念」という漢字は、「今」、これは元の形からして「器の蓋」が元の意味だが、こいつで 心(ウラ)を上から抑え込んでる文字だ。
つまり『万葉集』の「おもふ」の半分は、心が表(面)に現れて来ないように抑えられた「おも ふ」なのだ。
『万葉集』で「おもふこころ」と言えば恋愛感情のことだし、「おもひびと」は今と同じ「恋しい相手」を指すけれど、それは それまでの「おもふ」からすると、かなり違った意味だったのだろう。
我々がもっともよく使う「思う」の「思」は、心の上に乗っかってる のは、アタマを描いた象形の成れの果てだ。「思」は知情意の全部を含む。だからいま「おもう」と書くとすれば、「思う」としか書きようがない。
平安末期の漢和辞書『類聚名義抄』には、50の漢字に「おもふ」という訓があててある。
逆に言えば、50種類の「おもふ」が登載されている。
そこには「思う」も「念ふ」も「想ふ」も「懐ふ」も「憶ふ」もある。
そのすべてが厳密に「棲み分け」している訳ではないだろう。
しかし、常用漢字には「おもう」はただ「思う」一種類しかない。
なんということだろう。
常用漢字に従うなら、我々は「念願」し、「想 像」し、「懐古」し、「追憶」することはできても、「念ふ」ことも「想ふ」ことも「懐ふ」ことも「憶ふ」こともできないことになる。
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